<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<rss version="2.0">
  <channel>
    <title>P-kraft</title>
    <link>http://www.p-kraft.com/</link>
    <description>creaters unit</description>
    <lastBuildDate>Fri, 04 Jul 2008 11:41:20 +0900</lastBuildDate>
    <docs>http://backend.userland.com/rss/</docs>
    <generator>Official Blog</generator>
    <category>ブログ</category>
    <managingEditor></managingEditor>
    <webMaster></webMaster>
    <language>ja</language>
        <image>
      <title>P-kraft</title>
      <url>http://www.p-kraft.com/images/logo.gif</url>
      <link>http://www.p-kraft.com/</link>
      <width>144</width>
      <height>80</height>
    </image>
            <item>
      <title>ほら吹きセルゲイ12-5</title>
      <link>http://www.p-kraft.com/modules/weblog/details.php?blog_id=289</link>
      <description>現在のメディアコントロールの方法はきっとこのテレビジョンとインテルネットのコンビネーションが大きな役割を持っているのだろう。テレビジョンで大枠のコントロールを施し、それを参考に人々はインテルネットを活用する。インテルネットでは殆ど世界共通の情報が入手できるため、表面的には政府はコントロールなどしていないという理屈が成立する。なるほど。この方法を利用して、ウラジミール大統領は「ユートピア」を定義し、大統領を崇めるという思想を注入する事も可能だ。「ユートピア」の定義を国民に植え込むのだ。 ウラジミール大統領の新政策をユートピア幻想という事にしてみよう。幻想である。以前幻想という言葉を辞書で引いたことがあり、そのときにはこう記されてあった。「幻想：現実にはないことをあるかのように心に思い描く事。（例）戦争のない未来を幻想する」大統領の考えるユートピアは、戦争のない未来同様、幻想なのだ。ならばもう何だって良い。蛇口からはビアが出て来て、税金がなくて。。。困った。これではヴォルプスカヤと同じではないか。一つでも違うテイストを加えられれば良いのだが。ヴォルプスカヤが快楽のみの追求であったのに対し、この大統領の幻想は万人の幸せである。自由と平等だ。つまり、快楽の形は人により様々なので、ヴォルプスカヤが気に入らない人も出て来る可能性がある。ヴォルプスカヤは一つの主義集合体の町なのでそれでも構わないのだが、これは国家だ。税金も必要だし、蛇口からビアが流れ出ては、弱い人間はすぐに依存症と化してしまう。蛇口依存症だ。お父さんが蛇口依存症では娘も可哀相だ。万人を平等に扱い、幸福を分け与える。一部の人間だけ幸せではいけないのだ。１６世紀に書かれたユートピアに関する小説は、自由と平等を描いているらしいが、それ以降様々な先生達がこの両立を試して来た。その実験の為に何千万人もの人間が死んでいったわけだが、ウラジミール大統領は懲りずにまた実験を開始する訳である。しかしいくら理想の世界を想像しようにも、それが実現する可能性を現実的に考えるようになってしまっている私は、やはり何らかの理由で想像力を失ってしまったのだろう。ユートピアが想像できないなんて。。。安定感という欲望が想像力を奪っているというのを実感する。この寒い世界で、もう少しだけ私に残された想像力を大事に使っていきたい。そう思いながら私はテレビジョンのリモコンを手にとり、「ピッ！」と叫びながら電源を消すと、犬と一緒に冷たい外へと出て行った。</description>
      <pubDate>Mon, 16 Jun 2008 17:47:48 +0900</pubDate>
      <guid>http://www.p-kraft.com/modules/weblog/details.php?blog_id=289</guid>
    </item>
        <item>
      <title>ほら吹きセルゲイ12-4</title>
      <link>http://www.p-kraft.com/modules/weblog/details.php?blog_id=288</link>
      <description>メディアによる暴力の描写とは、表面的な暴力ではない場合も多い。他人を傷つける事全般も暴力だ。ニュース番組を見ていてもそれが言える。我が国の政府がどのような政策を行うかを淡々と報道しているだけでも、映像と真面目そうなニュースキャスターと彼等の話す正しい言語のおかげでかなりの説得力を持ち、疑問を感じなくなってしまっている。我が国が現在交戦している共和国や他宗教の勢力を否定する為に、様々な報道がなされている。ように感じる。具体的な暴力に関する報道をしている事もある。無差別殺人事件など、先進国で時折起る事件だが、メディアが伝えるものはいつも事件の悲惨さや規模などがテーマだ。人間はおぞましいものを経験したとき、それをなるべく正確に相手に伝えようとするものらしいが、現在の報道はこのレベルに留まっていると言える。しかし真の報道とは、もう１段階上に行かなければならない。つまり、事件の状況を説明するだけではなく、視聴者に対してその解決策を考える余地や、自由なリアクションの余地を与えなければならない。このままでは、ニュース番組も輸入された格闘アクションものも内容は同じというわけだ。でも、それさえ信じていれば幸せになるというのであれば、私は喜んでその思想について行きたい。自己主張をしたところで、この世の中では邪魔者扱いされるだけなのであれば。</description>
      <pubDate>Fri, 13 Jun 2008 21:37:03 +0900</pubDate>
      <guid>http://www.p-kraft.com/modules/weblog/details.php?blog_id=288</guid>
    </item>
        <item>
      <title>ほら吹きセルゲイ12-3</title>
      <link>http://www.p-kraft.com/modules/weblog/details.php?blog_id=287</link>
      <description>最近私が毎日楽しみにみている米国から輸入されたカートゥーンもその一つだ。１羽のアオゲラのような鳥が主人公なのだが、１０分程度の短編で毎回敵と戦うアクションものだ。彼に友だちはいない。なぜなら恐ろしいからだ。例えば先程見たエピソードは次のような内容だ。 木の中の家で幸せに暮らすアオゲラ。冷蔵庫を開けても食料がない。とてもお腹が空いた。そこに家の前を若い女子が通りかかる。「おじょうさん、どちらへ行かれるのかね」。すると若い女子は、「今からお婆さんの家へご馳走をもっていくのです」「ご馳走とは何だね」「ピッツァでございます」そしてこのアオゲラはこっそりとこの若い女子の後をつける。そしてお婆さんの家を確認すると先回りし、「今からここに悪い者がくるので、そとで隠れていたまえ」とお婆さんに言って、ベッドで寝ているお婆さんを外へ蹴りだし、自分がお婆さんの格好をしてベッドで若い女子を待つ。そして若い女子ははじめまんまと騙される訳だがすぐに異変に気が付き、持参したピッツァに赤唐辛子をたくさん散りばめ、アオゲラに食べさせる。口から火を噴くアオゲラに、若い女子はハラペーニョソースを飲めと手渡す。叩きのめされた形になったアオゲラは若い女子のこの行為に激怒し、反撃を開始する。始めは簡単な装備を用いて応戦するアオゲラ。しかもずる賢いアオゲラは、お婆さんを自分のおとりに使い、若い女子にお婆さんを攻撃させたりもする。何とも功名な手口だ。戦闘はアオゲラの圧倒的優勢で進められ、最後は大型爆弾を用いてこの若い女子を完膚なきまでに叩きのめし、お婆さんは箱に詰めたまま海の底へと沈んでいった。そして最後に高笑いするアオゲラがアップになり、番組は終了した。なんと政治的であろうか。現代社会を表している良い教育番組である。戦争の勃発する切っ掛けはいたって単純であり、強いものが正しい。武力に勝る国家が、自国の欲求を満たす為に他国を侵略し、それを食い止めようとする同盟国を壊滅に追いやった形だ。こうやって思想と言うものは受け継がれていくようだ。</description>
      <pubDate>Wed, 11 Jun 2008 10:31:12 +0900</pubDate>
      <guid>http://www.p-kraft.com/modules/weblog/details.php?blog_id=287</guid>
    </item>
        <item>
      <title>ほら吹きセルゲイ12-2</title>
      <link>http://www.p-kraft.com/modules/weblog/details.php?blog_id=286</link>
      <description>観てる間だけ、面白い。テレビジョンというものはかなりの発明だ。受け手の思考をここまでコントロールできるアイテムなんて、テレビジョン以外にはないだろうと思う。新聞に始まってインターネットに落ち着いている現在のメディアの中でもトップクラスの安易さだ。私のアパルトマンにはこのアイテムが無かった。なのでアパルトマンを追い出されて以来このメディアを利用し始めたのだが、凄い。画面の中では基本的に興味のない事しか展開されていないところも凄い。新聞やインテルネットに関しては興味の無い物には目を通さないという選択ができる。特にインテルネットに関しては興味のない話題は目にも入らない。メディアで思考をコントロールすると言うと大層な感じだが、何も国営放送のニュース番組で嘘を流さなくたっていい。真実のみを淡々と伝えているだけでも、受け手の思考をコントロールできるようにできている。画面に映す事ができる時点で真実なのであるし、世の中には真実しか存在しないはずなのだから。今観ている格闘ものの映画だって、これを今この時間に何人もの人間が観ていて、皆がこの国に行ってみたいだとか、自分も強くなって他人を叩きのめしたいだとか思っている可能性は高いし、実際にそうは思わなくても心のどこかにこの映画は入り込んで来るであろう。そして一番の問題は、面白い事だ。人間の感情として、素直に面白いからいけない。ここまで考えてるなんて、テレビジョンを発明したハカセは凄い。また、よく話されている若者の思考に関する問題も、ここに端を発する場合も多いだろう。例えば暴力の問題。テレビジョンではあまりにも簡単に暴力を描写できるようになっている。こうやって簡単に視覚的情報を与え続けていると、将来人間は想像力を失うのか、それとも想像力が豊富になるのか。早く近未来に行ってみたいものだ。</description>
      <pubDate>Mon, 09 Jun 2008 19:17:32 +0900</pubDate>
      <guid>http://www.p-kraft.com/modules/weblog/details.php?blog_id=286</guid>
    </item>
        <item>
      <title>ほら吹きセルゲイ12-1</title>
      <link>http://www.p-kraft.com/modules/weblog/details.php?blog_id=285</link>
      <description>　職場には顔を出していないものの、クビになった事は確かだろう。最近は周囲の人間達も私の存在に迷惑しているような感じで、悲しい気持ちになってしまう。天気も悪いし、しゃべる犬スナイプスも最近はあまりしゃべらなくなってきた。執筆活動に関しても、中々書きたいことが思いつかない。無理矢理書くのも少し変だし、困った物だ。どうしてこんなにも最近物事を否定的に考えてしまうのか、理由を色々と考えたがやはりここでも問題は金であった。随分と長い期間働いてなかったために、収入がないのはもちろんの事銀行に蓄えてあった金も良く考えて使わないといけない。モスクワ旅行が当選したかどうかもわかるはずが無い。なぜならもう長い事帰っていない自分のアパルトマンの住所を書いてしまったからだ。正直者は馬鹿を見るとは正にこの事だ。最近は気が付くと金が欲しいなあと妄想してしまうものの、具体的に金を稼ぐ方法などは何も思い浮かばない。思い浮かばないものの考えようとはするために他の事を考える時間が物理的に無くなってしまっている。お気に入りの小説だった「ほら吹きウラジミール」も、最近ではどうでも良くなって来てしまった。自分の疑問を解決する為に、知識を追求する為に、自分の興味の為に書いている小説なのだけど、その執筆が止まってしまった。これは直接金に繋がらないからというか、金が無いので小説を書くなどという浮ついたメルヘンを想像する余裕がないというか。単純に自分の能力が低下してしまったのか。金が原因で物事を楽しむ事ができなくなって来ている。ように感じる。しかし深く考えなければ楽しみは簡単に見つかる。例えば今、仕事に出ている友人のアパルトマンでソファに腰掛けながらチャイを手に持ち、テレビジョンでは資本主義国から輸入された格闘アクションものの映画が流れている。この映画を今私は夢中になって観ている。主人公の男がひょんな事からストリートファイトの大会に参加し、主人公の男は主人公だから強いので他の参加者を完膚なきまでに叩きのめしている。面白い。</description>
      <pubDate>Tue, 27 May 2008 21:18:11 +0900</pubDate>
      <guid>http://www.p-kraft.com/modules/weblog/details.php?blog_id=285</guid>
    </item>
        <item>
      <title>ほら吹きセルゲイ11-7</title>
      <link>http://www.p-kraft.com/modules/weblog/details.php?blog_id=284</link>
      <description>６：商品の感想これは一体、どういう事でしょうか。私は食べていないので感想を記述する事などは当然できない。しかししゃべる犬スナイプス自身はどう感じているのか。「いや、結構おいしいですよ」私に気を浸かっているのか、しゃべる犬スナイプスはこう言う。なのでここは彼の言う通りに「結構おいしい」と書いておこう。これには、こう書いておけば相手先の営業部長さんに対しても好印象を与える事になるという狙いもある。このように相手に媚びるような姿勢は、私も結局のところ一般的な市場原理主義者とたいして変わらないという事であろう。７：電子メイルアドレスこれは正直に書く。記載した所で何の問題もないであろう事は目に見えている。こんな点からも、私がいかに正直者かというところが伺える。正直者は馬鹿をみるという言葉があるものの、この場合はどんな馬鹿をみるというのか。合法ドラッグの購入に関する提案を非合法的な事務所から送られて来る可能性は以前よりも高くなるものの、そんなものに私は屈しない。８：電子メイルで商品の情報配信を希望するか否かこれは簡単だ。「いいえ」。しかしもし凄い情報が配信されていたら、それを受け取らない事の方がリスクになってしまう可能性がある。たとえば今回のようなプレゼントのお知らせが事前に電子メイルで届くとしたならば、それに対する準備を行う事が可能だ。今回の出費も中々なものだ。前もってわかってさえいればビアの量を減らすなど、それなりの対処ができたというものだ。となればやはりここは配信を希望しておこう。「はい」。そして私としゃべる犬スナイプスは、一仕事終えた開放感から読書会へと参加した。</description>
      <pubDate>Thu, 01 May 2008 11:52:10 +0900</pubDate>
      <guid>http://www.p-kraft.com/modules/weblog/details.php?blog_id=284</guid>
    </item>
        <item>
      <title>ほら吹きセルゲイ11-6</title>
      <link>http://www.p-kraft.com/modules/weblog/details.php?blog_id=283</link>
      <description>　当初このメルヘン小説は当初、「大統領ウラジミール」というタイトルであった。しかし「イワンの馬鹿」みたいなタイトルがいいなあと考えている最中の事、私の良き友人であり市場原理主義者でもあるワシリーに、民主主義という名のマーケットがどのようにして世界を食い漁っているかを図を用いて説明している際に、市場という神を信じきっている彼は私に向かって「このほら吹きめ！」と言い放ったのである。私はすぐに、「今、何て言った！？」と応答し、ワシリーは「このほら吹き！」「ほら吹きセルゲイ！」と繰り返したので、「それだよ、それ！君は天才だ！」と言って走って帰宅し、タイトルを「ほら吹きウラジミール」とした。ここが「ほら吹きウラジミール」と「ほら吹きワールドカップ」の接点となる訳だが、これは直接的にモスクワへの旅プレゼントへの応募動機となる。ほらを吹くはずのない大統領がほらを吹く。小説のジャンルは当初社会派ドラマと思っていたが、どのようなジャンルが適当かを百科事典でそれぞれ調べてみると、メルヘン小説の欄にはこう記載されていた。「空想性に富む物語。非現実的な事件が起る。（抜粋）」つまりこの小説はメルヘン小説ということになり、この設定は中々メルヘン小説としても奇抜である。しかし私は執筆の最中すぐに気が付く。国家はほらを吹かないというのは定説なわけであるが、このウラジミールさんの展開する内政及び外交そのものがほらなのではないかと。しかし行政とほらを同列で考えるなどとんでもない。ほらとは、一体なんなのか。本物のほら吹きとは一体何なのか。「ほらふき：大げさなでたらめを言ったり、大言を吐いたりする人」辞書にははっきりとこう記されている。これは、私が執筆した架空の国家の架空の大統領そのものではないか。こうなってくるとこのタイトルも好都合だ。しかし小説を執筆する以上は本物のほら吹きというものを目の当たりにしたい。そこで偶然ほら吹きワールドカップの存在を知り、その大会に参加すればこの小説に更なる味が加わると考えた訳である。　動機を説明すると以上のようになる訳だが、これをうまく纏めると、「国家がほらを吹くかどうかを確かめるため」これが最も妥当であろう。</description>
      <pubDate>Fri, 25 Apr 2008 18:39:30 +0900</pubDate>
      <guid>http://www.p-kraft.com/modules/weblog/details.php?blog_id=283</guid>
    </item>
        <item>
      <title>ほら吹きセルゲイ11-5</title>
      <link>http://www.p-kraft.com/modules/weblog/details.php?blog_id=282</link>
      <description>あれはもう８年前の話である。世界的にテロリズムという言葉が流行しはじめていた。テロリズムという言葉に興味をもった私は、早速私のお気に入りの辞書でその言葉を調べてみることにした。人前でテロリズムという言葉をもとに議論を行うにはまずその言葉の意味を正確に知っていなければならないからだ。そして辞書にはこう記されていた。「テロリズム：政治的目的を達成する為に、暗殺・暴行・粛正・破壊活動など直接的な暴力やその脅威に訴える主義」なるほど。しかし私は混乱した。このうちの全てが当てはまらなければテロリズムとは見なされないのか、またはこのうちの一つでも当てはまればテロリズムと認定されるのか。そこで当時の代表的なテロリズムをいくつか例に挙げて考えてみた訳だが、上記の４つの単語のうち、それらテロリストと見なされる組織が行っているものの殆どが１：暗殺、２：破壊活動となる。つまり全てが当てはまらなくても一般的にはテロリストと認められる訳である。そこで疑問に思ったのは、３：暴行、４：粛正である。暴行、粛正とは、正確な意味は分らないものの、主に権力者が一般人に対して行う行為ではないだろうか。各国の歴史を振り返ってみてもそれが簡単に読み取れる。しかし国家という共同体がテロリストである訳が無い。国家は偉いのだ。そこで私は、自分の疑問を解消するためにこの小説を執筆しはじめたのだ。内容は、ある架空の国家の行政機関が、上記４つのキーワード全てを繰り返して行くという壮大なメルヘンだ。まあそんな国家がある訳がないので必然的にフィクションになってしまう訳である。このウラジミールというのは架空の国家元首の名前である。このような辞書でいうテロ行為を行う国家なので、彼の出身は凶悪なテロ組織という事にしたい訳だが、でもそれは不可能だ。テロ組織が資本主義社会を目指すというのもおかしな話かもしれないと思ったからだ。なぜそれがおかしな話なのかはこの時点では分らなかった。ただ何となくそう思っただけだ。しかし執筆が進むにつれてその点を理解し始めた。まあそれはさておき、つまりはテロ組織出身の国家元首というのはたくさんいる訳だが、ここでは資本主義社会が舞台であるため、テロ組織出身ではなくしかしテロ組織と変わらない体型を持つ組織の出身という事にしたい。しかしそれは一体どのような組織であろうか。上記４つのキーワードと私の私見を照らし合わせてみて考えついたのが、国家による諜報組織だ。CIAやMI６を最初考えたが、それだと小説としてありがちで、CIAという言葉が小説に出て来るだけで薄いエンターテインメント小説を個人的に連想してしまう。その為にまあ自分の国でもある我らがFSB出身という設定にさせてもらった。良心の代表ともいえるFSB出身者が悪い事をする。この意外性が最高だ。FSB出身という事は、今までは正義の味方として我々国民を凶悪なテロリスト達から守ってくれていた訳である。つまりはテロリストの行動や方法論などに関してはテロリストそのものよりも知り尽くしていなければならない訳である。彼は大統領に就任するために様々な工作を練る。その第一の作戦が、民族主義である。民族主義を国民に対して煽る事により、自分のイメージを今までになかった強いリーダーであるというものに仕立て上げるのだ。まずその為には、悪役がいなければならない。この架空の国から独立しようとしている国を好都合だとばかりに悪役に仕立てた。まず凶悪なテロ行為とされる事件を彼の所属する政党自らが起こす。例えば爆破事件だ。地下鉄もしくは集合住宅に爆弾を仕掛けるなどが適当だろう。事件を起こした数日後に、これらはその独立を目指している国が起こした事件だと断定し、報道発表を行う。そして彼は軍隊を動かし、「このテロ行為に我々は屈しない」などと演説する。するとたちまち無名だった彼の知名度が上がり、一国の大統領へと伸し上げたのだ。その後も上記１、２、３、４全てを繰り返し、造り出した敵に決して屈しない強い国家を作り上げ、国民からの支持を確固たる物にして行った。つまりはテロリズムという言葉に対する疑問からこの「ほら吹きウラジミール」の執筆を始めたわけだ。</description>
      <pubDate>Mon, 21 Apr 2008 20:19:02 +0900</pubDate>
      <guid>http://www.p-kraft.com/modules/weblog/details.php?blog_id=282</guid>
    </item>
        <item>
      <title>ほら吹きセルゲイ11-4</title>
      <link>http://www.p-kraft.com/modules/weblog/details.php?blog_id=281</link>
      <description>４：職業徹底した反市場原理主義を貫くアーティスト。いや、それはまずい。自分で自分の事をアーティストとか言ってはまずい。困った。市場最先端都市のシステムは、無駄な物を造り出してそれを何とか捌く。単純にそれだけである。営業という言葉には最近かっこよささえ覚えてしまう。生活に必要の無い事を敢えて行うという行為は、芸術家のそれと同列なのかもしれない。商業音楽、結構ではないか。しかし私は知りたい。では何故、芸術家は皆良いやつなのにお金大好き君は皆悪いやつなのだろうか。いや、もしかしたら以外と悪くもないかもしれない。金というアイテムが人間の心に余裕という優しさを齎す場面は、貧困が齎す精神的抑圧／混乱よりも機能的に優れているではないか。私の場合は言うまでもなく後者ではあるが、どうしよう。「貧しいが、余裕」こう書けば皆、「徹底した反市場原理主義を貫くアーティスト」と思ってくれるに違いない。５：応募の動機これも正直に書かなければならない。その為にはどこから説明したらよいのか。そこが重要になってくる。素直に記述するとしたらこうなる。「ほら吹きウラジミール執筆のため」。しかし問題は、コンテクストをどこまで含むかという事だ。つまりこれだと先方の営業部長に阿呆だと思われてしまう。ここは冷静に、ほら吹きウラジミールとモスクワの関係性を説明しなければならない。「ほら吹きウラジミール執筆の為のほら吹きワールドカップ参加のため」。これではもっと阿呆だと勘違いされてしまう。阿呆と思われない為にはどうしたらよいのか。まずこのほら吹きウラジミール執筆に至った経緯を説明しなければならないだろう。 これは自分の人生に係って来るため、この書類の中で最も困難な箇所である。</description>
      <pubDate>Mon, 14 Apr 2008 21:28:55 +0900</pubDate>
      <guid>http://www.p-kraft.com/modules/weblog/details.php?blog_id=281</guid>
    </item>
        <item>
      <title>ほら吹きセルゲイ11-3</title>
      <link>http://www.p-kraft.com/modules/weblog/details.php?blog_id=280</link>
      <description>応募用紙には様々な情報を提供しなければならない。住所と名前は書かなければ仕方が無いかもしれないが、その他書き留めなければならない箇所が多すぎるように感じてしまう。これらの情報はいったいどのような扱いを受けるのであろうか。しかし私は隠し事などしない主義なので、全て真実に基づいてここに書き留める事をこのドッグフードメイカーの営業担当部長に誓う事とした。提供しなければならない情報をダイジェストで見てみると、１：名前、２：住所、３：年齢、４：職業、５：応募の動機、６：商品の感想、７：電子メイルアドレス、８：電子メイルで商品の情報配信を希望するか否か１〜３に関しては事実を記号的に記載するという近未来感覚でできるのでここは嘘の付き様が無い。嘘をつこうものならばモスクワの旅行が当たる可能性が格段に小さくなってしまう。大体嘘はいけない。しかしそうなると、4番からが問題だ。それぞれ僅か４０&amp;#13216;程の枠内にいかにして書ききるかだ。モスクワ旅行は簡単には手に入らないという事の証明だ。この１万キロ以上離れた独立社会主義国家とも思える場所から、資本主義的な繁栄を遂げている大都会へと向かうためにはこの僅かな枠をいかにして捉えるか、つまりそこにはストラーカーの感性が必要となって来る訳だ。逆に言えば、僅かなスペースに頑張って自分の意見を纏めさえすれば、ソビエト崩壊から現在に至る年月を飛び越える事ができるという訳だ。そこで流されて来た血と汗と涙は計り知れないはずであり、その経験をせずに手に入れたものを更に発展させるのが我々ネクストジェネレーションの使命である。</description>
      <pubDate>Fri, 11 Apr 2008 10:38:37 +0900</pubDate>
      <guid>http://www.p-kraft.com/modules/weblog/details.php?blog_id=280</guid>
    </item>
      </channel>
</rss>